初代川柳

「元祖川柳翁肖像」

(川崎家蔵)


本 名 : 柄井八右衛門 
(からいはちえもん)
  号  : 無名庵
(むみょうあん)/川柳
生没年 : 享保3(1718)年10月生れ
(通説)。 寛政2(1790)年9月23日没。
活 動 : 宝暦7(1757)立机―寛政元(1789)年9月25日

 今日、「川柳(せんりゅう)」と呼ばれる十七音文芸の名称の元になったのは、江戸中期の前句附点者(選者)の一人であった柄井八右衛門という人の俳号(雅号)によるものです。短詩文芸のひとつである「川柳」の名称が、ひとりの前句附点者の号から興っていることは類例がなく特筆に価します。
 当時、江戸には多くの前句附点者がおりましたが、後発の柄井川柳という点者が現れると、その選の面白さから人気を博し、さらに、選句集 『誹風柳多留』の刊行後は、江戸随一の地位をゆるぎないものとしました。
 宝暦7(1757)立机以来、没するまでの足掛け33年間に260万句に及ぶ寄句を集め、当時の前句附点者の中でも際立った人気を集めたことは、柄井川柳の卓越した選句眼と選句基準の独自性が時代に受け入れられたことを意味します。
 選句の特徴は、「@都会趣味(新興都市江戸の気風・嗜好・日常語)を基調として洗練された穿ち(写実・アイロニー)による笑いを特性としたこと、A前句(題)にこだわらず、一句そのものの面白さ(一句立て・独立単句)に重点をおいた」ことといえるでしょう。
 柄井八右衛門は、浅草新堀端・天台宗
龍宝寺門前の名主でした。
 
 
 木枯や跡で芽を吹け川柳 (伝辞世)

 毎年、9月23日の命日には、川柳を慕う川柳家によって龍宝寺において川柳忌が行われます。同寺境内には、柄井家の墓所が〈都旧跡〉として指定され、辞世といわれる「木枯の句碑」があります。
 なお、長男が二代目川柳を継承、三男が三代目川柳を継いだといわれます。柄井家は、その後も武家勤めで続くが、現在は無縁となっている。
 血筋による川柳号継承は三代までで、四代目川柳以降は、川柳の有力指導者が継承、六代目からは柳風会により宗家として継承され、十四代目以降は、個人の作家が雅号として継承しています。