九世川柳

 

<活動>明治26(1893)4月嗣号―明治37(1904)年4月11日没。

<号> 
和橋/万治楼義母子/緑亭川柳/堂

 
本名、前島(のち柄井を名乗る)好信。天保6(1835)年、江戸生れ。
 5世川柳姻戚(孫甥)。6世川柳門。明治初期の投書家。
 団団珍聞、絵入朝野新聞(江戸新聞)などの記者を経て有喜世新聞主筆。
 早くから柳風狂句に頭角を現し、明治10〜20年代の作句第一人者。
 8世川柳没後の明治26年4月、臂張亭〆太と9世嗣号を争い、社中投票で勝ち、9世を嗣号。緑亭を号す。
 よく明治27年11月、柳風会機関誌「柳の栞」創刊した。
 前年の投票結果に承服せず、正風亭川柳を名乗る〆太に対抗するため、無縁となっていた初代川柳の墓域を整備、また、次男・仲吉に柄井姓を継がせ、自らも柄井川柳と称した。
 〆太没後は文字どうり第一人者となり、勝海舟、杉孫七郎(聴雨)、山々亭有人(条野採菊)、仮名垣魯文、骨皮道人などの知名士を社中または後援者に、全国数千の会員を擁した。
 明治36年、新川柳の勃興に際会しつつ浅草寺永代奉額狂句合には、なお全国狂句連の絶大な支持を得た。
 現在伝えられる初代以降の家譜は概ね9世の手になる。    
 明治37年、狂句界最期の大立者として没。法名:緑影院和橋川柳居士。東京都・浅草栄久町の龍宝寺に葬る。
 2003年、多磨霊園の芳忠家墓所にに改装。
 2005年、孫の芳忠淳氏によって『柳のしおり』が刊行される。

<主著作>
<記念碑>  
句碑が向島・三囲神社にある。

 代表句

 9世川柳染筆