三派鼎立と初期の指導者 

  

 各新聞・雑誌の選者と投句者を中心に、初期の川柳が分派していったと記しましたが、なかんずく顕著な活動を見せ、その後の川柳界を引き続きリードした三つの大きな系流がありました。
 その一つは、新聞《日本》の選者・井上剣花坊とその投句者集団、その二は、《電報新聞》の阪井久良伎とその一門、そして三番目が、田能村朴山人(朴念仁)から受け継いだ窪田而笑子の手で育成された《読売新聞》に拠る投稿者の一群です。
 これらの各集団は剣花坊主宰の柳樽寺川柳会、久良伎を盟主とする久良伎社、而笑子を会長とした読売川柳研究会に発展、それぞれの勢力を擁して三派鼎立の様相を現出しました。
 明治末年から大正前半にかけて、この三つの流れが全国の川柳界を三分しました。

 このうち、川柳史の上では剣花坊と久良伎の二人を中興の祖とし、何かにつけて記される機会も多く、もちろん、両派の流れを引く川柳作家は今なお多きを数えます。

 一方、その分布と人脈において実質的には最大の広がりを見せた読売系、およびその指導者については、これまであまり知られることのないのが実情です。
 これはたいへん残念なことだと考えますので、この機会にあらためて振り返ってみることにいたします。
 明治の読売新聞が文芸に力を入れたことはよく知られていますが、川柳もその一角を担って早くから〈こぶ柳〉と称する募集欄があり、これが新時代に向けて〈新川柳〉と欄名を改めたころから、投句者が急増しました。そこで、この欄の選者・朴山人を中心に、初めて読者・投句者に呼びかけて、東京・札幌ビール庭園で「読売新聞読者懇談会」が開かれたのが、明治37年11月26日のことでした。
 それから半年後の翌年5月7日には、牛込神楽坂の伊香保楼で第一回川柳会が開催されこれを契機に、翌月には、読売川柳研究会が正式に発足しました。久良伎社に後れること一年、柳樽寺川柳会に先立つこと一か月でした。これが、読売系川柳の発祥で、朴山人を会長に、幹部は而笑子、素骨、笑倒子、門外漢、伝兵衛、弥二郎ら10人でした。
 この年の12月、読売新聞紙上および朴山人が選に当たる系列の雑誌《日本農業雑誌》《ムラサキ》などの入選句を抜粋した類題句集『新川柳抄』が刊行されましたが、本書に収録されている作者の数は、442名。すべてが同派といえないまでも、明治38年という時点で、これはおどろくべき数字ということができます。
 何といっても、川柳の復興が成って、まだ3年を経たに過ぎない揺籃期に、他の二派をはるかに凌駕する投句者集団を獲得していたということです。
 39年11月には、機関誌《川柳とへなぶり》(のち《滑稽文学》と解題)が創刊され、以後、選者が朴山人から而笑子に引き継がれてからは、全国各地に続々と支部が設立されました。読売新聞あるところ読売川柳研究会ありと言われるようになるのもこの頃からで、当時の川柳界でもっとも広い領域と作家数を占めたのがほかでもない読売派でした。これは、従来の川柳史では比較的閑暇に付されてきた事実で、あらためて特筆されねばならないことだと思います。

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