14世川柳略年表

明治25年3月 11日・東京・豊島区千早町で、祖父は山形天童の織田家江戸留守居役。
    士族・根岸文夫(軍人)の長男として生まれる。
    私立青山学院中等科
    日本大学の予科から法科に進学
大正5年 日本大学法学部卒業(大正4年?)
    本人自筆の履歴書によれば、大学を卒業後、暫くの間は小説家村上浪六の指導を受け
    つつ、定職は持たずに著述業に専念した。
大正6年 採掘場管理人を2年間勤める。月給150円。
大正8年 下野新報学芸部長、編集次長
大正8年頃 作句をはじめる。
昭和5年 日本放送協会の嘱託となり、計18回の放送講演をこなす。講演の題目は、後に根岸の
    代表的著作となる『鳥居の研究』につながる「鳥居の話」や、「障子の話」、「五重
    塔の話」、「江戸から残された地蔵尊」といった日本の伝統的な建造物や空間につい
    ての考察を発表。
昭和6年 時代世相研究会の発行「エロ・グロ・パンフレット」の第4号『裸体美の研究』およ
    び時代世相研究会とほぼ同じ同人による燎原社からの「エロス・セリーズ」の第1巻
    『毛』を出版。
昭和10年 ラジオ新聞を創設、主幹となる。
昭和11年1月 商業都市美協会の創立に参画し、同協会の常任幹事に就き、月80円の手当てで協
    会機関誌『商業都市美』を主幹する。
昭和12年1月 当時活発な共同施設事業の展開を見せていた東京人形町通商店街商業組合の書記
    長に就任、商店街の実地指導を行う。就任と同時に根岸自身が昭和10年に創刊し経営
    していた「東京ラヂオ新聞」を廃刊。
    第2時大戦中、地方句会の立評者となる。
昭和18年 厚生閣より『鳥居の研究』、アルス社より写真集『鳥居』を根岸栄隆 の名で出版。
    学術的にも完成度の高い著作として評価されている。 
昭和21年6月 柳風狂句判者心得の允許を受けて判者に列する。
昭和23年3月11日、伊藤静丸(13世)の発意と12世川柳の後援で14世を嗣号。
      
緑ませ根岸に移す檉      十三世川柳
      
すくすくと伸びよ移枯乃川柳   柳霞楼(十二世)
昭和23年、東京川柳会を主宰、機関誌「東京川柳」(46号から「川柳」)を発行。
昭和26年 脇屋未完子(後の十五世川柳)、東京川柳会の門を叩く。
昭和30年 弟・石川栄耀死す。弟の死に際し、
       
線香一本カンタンだなと立てる
       
てるのが遺族に厭だそうな俺
昭和31年 『古川柳辞典』5巻を日本新聞社から出版。
昭和34年 句集『考える葦』出版。
昭和44年 4月 4日、帰宅の雪道で転倒、いくつかの病院を巡った後町田市郊外の芙蓉病院へ
     入院。機関紙は165号で中止。句会も自然解散となる。
昭和49年 私版・短詩型文学全集43『根岸川柳集』
昭和51年 一時快復し、根岸川柳米寿木年号(166号)を発行。
昭和52年8月 27日早朝、胃癌で没。東京・雑司が谷墓地に葬る。法名:釈柳栄信士
欲しがる者に無償で与えたカッパの直筆は10000枚を超えるという。

  資料:「根岸栄隆履歴書」東京都公文書館商工関係公文書(1937)
  脇屋川柳氏講演