研 究 室

 

初代川柳の過去帳について

 初代川柳こと柄井八右衛門の一族は、浅草新堀端の龍宝寺に眠っている。
 関東大震災によって、過去帳などの記録は灰燼に帰してしまったことから、その真実を確認する術は失われてしまったが、現在までに残されている記録を元に検討してみたい。

 最も信頼できる柄井家過去帳の記録は、明治40年代に久良伎社の竹馬によって書写、「獅子頭」誌上に掲載されたものである。阪井久良伎が川柳の忌日に龍宝寺を訪ねた際、和尚と話している間にともの竹馬が過去帳の書写をしたといわれる。

 「柄井家過去帳」のページをみてほしい。記号AからTまでの20人が竹馬の書写した柄井家過去帳に登場している。時代でみると、最も古い年記が元禄13年(1700年)であり、最後は、天保14年(1843年)の教学院雪山源理信士までの百五十年近くに及ぶ。

 別に、柄井家の系譜については、9世川柳の「柳風狂句栞」(明治30)に現在の通説の原型が載せられている。
 

 これらを照合、検討してみよう。
 寛文10年、柄井氏が江戸に下ってより初めて他界したのは、元禄13年の「観月妙宝信女」である。同じ年、続いて「蓮壽貞性信女」が他界する。おそらく、この二人のいずれかが柄井将曹夫人ではないだろうか?
 正徳2年、柄井将曹が没する。江戸に下行した時、20台であると仮定すると、この時は60台になっている。これが、「恭岳常然信士」である。
 享保15年に他界する「全幻童子」は、初代川柳が享保3年生れであることを考え合わせると、川柳の兄弟ではなかろうか。
 寛延2年の「光明院融岳宗円信士」は、一般に川柳の祖父・柄井図書であるといわれている。しかし、夢一佛が指摘しているように、戒名中の「宗円」は、川柳の父が名乗ったものであり、疑問の余地がある。推測の翼を大きくすれば、初代川柳が名主職を継ぎ八右衛門の名を譲られた際、元来祖父将曹の名乗っていた「宗円」を名乗ったとすれば説明がつく。
 柄井宗円の没年は、残念ながら伝えられていない。宝暦5年に名主を隠退したことは事実であるから、安永中に没した男子「荘域実有信士」か、天明年間に他界する「顕実院是相日隆信士」がこれにあたると想像される。この辺の考察を、夢一佛は、
     過去帳の年代によると、宗円は祖父らしく、川柳の父親は、
     顕実院是相日隆信士であるらしい。又、宗円を父とすれば、
     初世川柳の実兄(日隆信士)が川柳の前代であったのだらう。
と述べている。
 その後の戒名は、墓碑銘で確認されているところからっすると、
     契壽院川柳勇縁信士    初代川柳
     微妙院浄心法性信女    初代夫人
     円鏡院智月寂照信女    2代川柳
     心鏡院常照妙光信女    2代夫人
     但受院浄刹快楽信士    3代川柳
     無量院長遠妙壽信女    3代夫人(赤信女・没年記述なし)
である。
 さて、柄井家過去帳の末尾にある「教学院雪山源理信士」(天保14年没)は、「燕斎叶の手記」に記載されている柄井長源ではないかといわれる。
     弘化の今子孫は一橋侯の表坊主柄井長源といひて血統を残したり
という記載からの想像であるが、弘化元年は天保15年にあたり、天保14年に没した源理信士を長源に比定する確証はない。
 童子、童女および歴史の表に現れない信女については、推測の域を出ることはないが、大きな問題ではない。
 考察を進めなければいけない問題は次の点である。
 

 まず、2代川柳に比定される「円鏡院智月寂照信士」であるが、過去帳では「信女」となっている。これが、竹馬の写し違いなのか、真実なのか、確かめる手立てが今はない。
 物証として残っているものに、ニ世川柳の墓と伝えられるものがあるが、これも風化によって表面が剥離してしまい全く読むことができない。
 すなわち、2代川柳と伝えられる戒名が、真実かどうかの確証がないまま、伝説になってしまっている。
 疑問となるポイントのひとつに、ニ世墓の銘とされる次の表記の記録である。

     円鏡院智月寂照信女    文政元戊寅十月十七日
     心鏡院常照妙光信女    文政七甲申四月七日

     妙縁童女           文政八乙酉九月十九日

 これも信女が並んでいる。信士ではない。過去帳の記述と同じである。それに、院号の「鏡」といい戒名中の「月」という文字にしろ女性をイメージさせるに十分である。7年を超えて、同じ墓に葬られた二人の関係がいかなる因縁によるのかを想像するのは難しいが、夫婦であるというのが最も一般的であろう。
 「鏡」の対応、「月」−「照」」の照応、「照」−「光」の照応。この二人が、因縁浅からぬ関係であることは間違い無い。
 また、妙縁童女の存在も、この二人の家庭に生まれた子供の存在を彷彿とさせる。

 次に、墓碑には戒名がありながら、柄井家の過去帳に記載されていない「但受院浄刹快楽信士」こと3代川柳である。夫人が赤信女で過去帳にあるのに、何故3代川柳の戒名が過去帳から漏れたのだろうか?竹馬の書き漏らしなのであろうか・・・。
 
 最後に、誰も触れない問題がある。宝暦3年に他界した「往蓮社空誉源生雲意居士」が、いったい柄井家の誰であったのかが不明である。柄井家の過去帳にあって唯一の「居士」でありながら、正体が解らないのは何故だろうか。
 この「居士」を将曹または、図書に当てはめた場合についての検討も考えてみる必要がある。この場合、夢一佛の提唱する名主先代実兄説が真実味を帯びてくる。ある程度裕福な家庭の次男坊が俳諧などに手を染めたとしても不都合はない。
 この説の不自然な点は、実兄が存命の20年間、なぜ弟が名主職にあったかということである。やはり、日隆信士を実兄とするのは無理であろうか。

 柄井家の過去帳については、まだまだ解っていない部分が多く、「燕斎叶の手記」のような同時代記録が出てこない限り、その闇の奥の真実をつかむことはできないだろう。

                                                                            尾藤 一泉