初代川柳句碑の再発見 

新川柳草創期の小さな感動物語

  初代川柳を偲ぶ木枯の句碑が、柄井川柳の菩提寺である天台宗龍宝寺にあることはよく知られています。毎年、9月23日の川柳忌には、同好の士が集まって墓参をし、句を献じ、初代川柳を偲んでいます。
 今日、初代川柳の墓所句碑がここにあることは、周知のことですが、新川柳か芽を出したばかりの百年前には、このことすら未知の闇に閉ざされていました。
 川柳中興の祖・阪井久良伎にして、この辺の知見はなかったようです。それは、川柳没後、一時は、初代の血筋を立てて川柳風の存続をはかったものの、四世川柳が出て前句附から「誹風狂句」への大きな流れが起き、さらに、五世六世の代に、天保の改革の影響を諸に受けて「柳風狂句」としてのないよう形式の規範化と「柳風会」という宗家家元中心の強力な組織化が行われ、初代追悼という儀式も宗家権威の手中に入れられ、柳風会組織内だけの閉鎖的なものになってしまっていたためでしょう。 
 この辺の事情は、新川柳派が初めて初代川柳の墓碑を発見する驚きとも感激ともとれる一文が阪井久良伎の著書『川柳久良伎点』にみてとれます。
  ▲水日亭の報告に曰
   仰に従ひ、初代川柳翁の墓碑、六月三日(筆者注:明治37年=一九〇四年)呑吐兄   穿鑿、辛うじて見當り申候(浅草新堀端栄久町三十八番地)天台宗宝龍寺に有之、   墓碑は去廿七年中の改築、正面に「柄井川柳之墓」とのみ刻まれ申候、只寺門の側に   「木枯や跡で芽を吹く川柳」の句碑有之候、参詣は可なり有之候由云々
 と記され、明治37年に初めて新川柳派の人々に墓所および句碑の存在が明らかになったことが窺えます。傍線の部分は、記述のままにおきましたが、龍宝寺を「宝龍寺」と間違えるなど、いかに龍宝寺自体の存在が日常化していなかったことが解ります。
 明治37年6月は、新川柳最初の同人結社である久良伎社が産声をあげたその月にあたり、宮崎水日亭の呑吐坊も創立同人のメンバーでした。
 この時、二人が見た初代川柳の句碑は、天保期に五世川柳によって初代川柳の五十回忌追善事業(天保10年=一八三九)の一環として建立されたものです。

                                             尾藤 一泉